■概要・見所 四稜郭は、1869(明治2)年の箱館戦争時に、「五稜郭」の北東約3qの丘陵上に急造された洋式築城法に基づく堡塁です。 1869(明治2)年、新政府軍の攻撃により、松前地方から函館まで後退した旧幕府脱走軍が新政府軍の攻撃に備え、函館近郊を一望でき、五稜郭の鎮守府・東照宮を防御するため築造したものです。昼夜を問わずの工事を行い短期間で完成しましたが、わずか数時間で陥落したといわれています。 四稜郭は、約2万1500uの規模があり、東西約100m、南北約70mの範囲に、幅5.4m、高さ約3mの土塁が巡り、その周辺には幅2.7m、深さ0.9mの空壕(からぼり)が掘られています。四隅には砲座が配置され、南西側には門口が設けられています。 【産業遺産/北海道産業考古学会会長・山田大隆】 ◆五稜郭・四稜郭跡 (軍事)幕末の蘭学者武田斐三郎が蘭書の星型平城に範をとり、1864(元治1)年に設計施工した。堀があり、五角型なので、死角がないのが特徴。戊辰の役(函館戦争、68〜69)前にはこの中に茅沼炭鉱や石狩油田調査をした函館奉行所があった。この役では、榎本武陽が土方、大鳥、荒井らと半年立て篭もり、降伏した。榎本操艦の開陽丸は幕府最後の蘭製戦艦で江差港で座礁、1975(昭和50)年に積載品は水揚げされ水中考古学の嚆矢である。北海道遺産認定。 |
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