■概要・見所 五稜郭跡は、1854(安政元)年、日米和親条約締結後、幕末期の函館開港に伴い、対外政策、北辺防備および蝦夷地統治を目的に築造された箱館奉行所と稜堡とよばれる5つの星型の突角をもった西洋式土塁、防御施設です。 設計は、箱館奉行支配諸術調所教授役の武田斐三郎が担当し、16〜17世紀のヨーロッパで広まった城塞都市をモデルとして考案され、築造に7年の歳月を費やし、1864(元治1)年に竣工しました。郭内は奉行所庁舎をはじめ25棟ほどの付属建物が設置され、蝦夷地統治の中心的役割を担っていました。 1868(慶応4)年、明治新政府の所管となりましたが、1868(明治元)年10月には旧幕府脱走軍により占拠され、箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争終結後は、再び明治政府兵部省所管となり、1872(明治4)年に奉行所庁舎をはじめ郭内建物の大半が解体され、現在当時の建物としては兵糧庫と呼ばれる土蔵のみが現存しています。 【産業遺産/北海道産業考古学会会長・山田隆大】 ◆五稜郭・四稜郭跡 (軍事)幕末の蘭学者武田斐三郎が蘭書の星型平城に範をとり、1864(元治1)年に設計施工した。堀があり、五角型なので、死角がないのが特徴。戊辰の役(函館戦争、68〜69)前にはこの中に茅沼炭鉱や石狩油田調査をした函館奉行所があった。この役では、榎本武陽が土方、大鳥、荒井らと半年立て篭もり、降伏した。榎本操艦の開陽丸は幕府最後の蘭製戦艦で江差港で座礁、1975(昭和50)年に積載品は水揚げされ水中考古学の嚆矢である。道遺産認定。 |
|
|