■概要・見所 幕末の頃、異国船による襲撃に備え、北方警備を強化するため南部藩(現・盛岡市一帯)が江戸幕府の命により、東蝦夷地の海岸警備にあたるため1856(安政3)年に設置した陣屋の跡です。 陣屋の本郭は、約1万7520uの広さがあり、高さ2〜3mの土塁とその外側に壕が掘られ、さらにその外側に外郭土塁をめぐらせるという内外陣の二重構造で築かれています。 当時、南部藩士約350人が常時派遣され、守備兵として駐留していました。 郭内には鉄砲武者たちの兵舎や稽古場などの7棟の施設棟、井戸、土塁囲みの火薬庫などがありました。追直には、見張り所が設置され、また大砲を据え付けた台場もあり、陣屋と三方から湾内への侵入船を撃退する陣を構えていました。 しかし、明治に代わる直前の1868(慶応4)年、南部藩は新政府への陣屋引渡しを拒み、同年8月に自ら陣屋を焼き払い故郷へと引き上げたとされています。 現在は土塁や堀の修復、屋敷跡の平面復元が行われ、当時の土台石や石畳、杉林を見る事が出来ます。また現在、5月上旬から6月初旬にかけては桜の名所としても親しまれています。 |
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